
『夫婦生活』篇
《第五回》三百万人もの
読者を擁した戦後エロ雑誌
『夫婦生活』の終焉を書く前に戦後エロ雑誌(という言い方も身も蓋もないが、風俗雑誌と言うと少し違う気がする)について書いておこう。
戦後エロ雑誌には二つのピークがあった。一度目は戦後すぐ、昭和二十年八月から二十三年にかけて。二度目が昭和二十四年から三十年代の初めまで。
戦前、戦中に抑圧されて溜まりに溜っていた性のエネルギーが敗戦をきっかけに一気に爆発したのが一回目のピークで、この時期を代表する雑誌が『リベらる』(太虚堂書房、昭和二十一年一月創刊)と『猟奇』(茜書房、昭和二十一年十月創刊)である。
先年、早稲田の古本屋で『猟奇』の揃い (といっても六冊だが)を見つけた。値段はたった三万円。すぐに購入して、今、手元にある。
この時代、粗悪なザラ紙のカストリ雑誌が巷に氾濫した。闇市などで地面にゴザを敷いて売られたが、活字に飢えた人々が争うように買っていった。
ちなみにカストリとは米やイモから急造した粗悪な密造酒。三合で(酔い)つぶれるを三号でつぶれる(廃刊)にかけてカストリ雑誌と呼んだ。
余談だがカストリ焼酎にはしばしばメチルアルコールが混入されていて、そのために目がつぶれたり、命を落としたりする人が続出した。
吉行淳之介がこんな秘話を書いている。<武田麟太郎の死因は曖昧にされていたが、実はメチルであった>(「スルメと焼酎」、林忠彦『カストリ時代』に吉行が寄せた一文)
『リベらる』の編集者はもともと『アメリカ』というタイトルを考えていたが、旧知の菊池寛にアドバイスを仰ぐと「こっちの方がいい」と言って『リベらる』と命名したという。
創刊号には時の文部大臣前田多聞と菊池寛の対談、武者小路実篤の「自由に就て」など掲載。その他、大佛次郎、舟橋聖一なども登場しているのだから堂々たる総合誌の趣だ。
ところが二号の「赤い旋風(ゾルゲ事件)」三号の「マッカーサー元帥の家庭」が占領軍の検閲を通らず掲載禁止。二十二年に一時休刊し、復活とともに雑誌の性格がエロ雑誌の方向へ変わっていった。
二十三年当時の最高部数は十八万部。「まだまだ需要はあったが、紙がなくてこれ以上刷れなかった」というのだから、出版不況の今からみると羨ましいような話である。
書店に「『リベらる』本日午前10時入荷」のビラが貼られると人々は行列して待ったというエピソードが残っている。
もう一冊の『猟奇』の創刊の辞が人を喰っている。
<諸者諸賢が、平和国家建設の為に心身共に疲れ切った午睡の一刻に、興味本位に読捨て下されば幸です>
こちらは『リベらる』と違って当初からエロ雑誌を目ざしていたわけで、『猟奇』が戦後発禁第一号の“栄誉”を担ったことからもそれは伺える。第二号の北川千代三の小説「性愛告白譚・H大佐夫人」がひっかかり、著者の北川は刑法175条によって罰金250円を払った。
「H大佐夫人」は徴兵忌避学生と大佐夫人が防空壕で結ばれるという小説だが、今、読んでみるとエロでも何でもない。
刑法175条の適用というのも実は大問題で、これが後のチャタレイ裁判につながっていくのだが、当時は中島健蔵(評論家)でさえ『猟奇』摘発にこうコメントしている。
「悪質なエロ雑誌に対する取締りが出版法規によらず、一般刑法によって行われたという事実は大進歩」
この第一のピークが終わった原因は戦後経済を襲った猛烈なインフレ。紙代、印刷代が暴騰し、出版物の定価も一・五倍。一方読者の方は生活苦で雑誌どころではなくなった。まさに色気より食い気の時代だった。
第二のピークを迎えるキッカケになったのは「ゾッキ本」である。つぶれた出版社の在庫品を捨て値で買い切り、定価の二〜三割で売るのを俗にゾッキ本という(ゾッキ屋は殺(そ)ぎ屋の転じたものという説もある)。
抜け目のない連中がその一歩先を考えついた。つぶれた出版社から紙型そのものを買い取り、最初からゾッキ本をつくって売る。業者にとってゾッキ本の最大の魅力はそれが全部、現金取引の買切り制だったことである。
ゾッキ本はなぜ儲かるか。
(1)つぶれた出版社の紙型を利用するのだから組代がいらない。
(2)原稿料がいらない。
(3)ひとりでできるから人件費がいらない。
(4)手間がかからないから月に四、五点出せる。
詳細は繁雑なので略すが、原価計算をすると、製作者の純益は一冊当たり二円、一点二万部として四万円、それをひと月に四、五点もつくってしまうのだから月二十万円。こんなうまい話はあるまい。
このゾッキ本方式が雑誌にも、応用された。いろいろな雑誌の紙型をつぎはぎし、ノンブルは新しく打ち直し、表紙を新しくすれば一丁上がり。
こんな方式でエロ雑誌が続々とつくられ、第二のピークを迎えるのである。
『夫婦実話』、『新夫婦』『愛情生活』、『夫婦世界』『青春ロマンス』『笑の泉』『あまとりあ』『実話倶楽部』など最盛時には五十誌以上。五万から七万部売れていたというから、ざっと二百五十万人から三百万人のエロ雑誌読者がいたことになる。(文中敬称略・以下次号)