
『夫婦生活』篇
《第一回》『話』から『夫婦生活』へ転じた辣腕編集者増永善吉の決断
〈全国社会の単位が家庭にあり、家庭の基本が「夫婦生活」にありながら、何故かこの領域分野だけが、近頃の雑誌氾濫時代に忘れられています。皆様の「夫婦生活」をいつまでも幸福に、そしてより一層楽しいものにするため、本誌はいつも皆様のおそばにあって、皆様の守護神(おまもり)の役目を果たして行きたいと考えます(以下略)〉
堂々たる創刊の辞ではないか。
カストリ雑誌全盛の昭和二十四年六月、『夫婦生活』という雑誌が創刊された。夫婦生活という言葉はふつう夫婦の夜の営みを意味するから(そのためか広辞苑第五版には出ていない)、ずいぶん大胆なタイトルをつけたもので、後年、問題になった『女性自身』の比ではない。
B6判、144ページ。あと書き欄に書かれたこの一文の筆者こそ、『夫婦生活』を創刊した増永善吉である。
増永善吉といっても、今やその名を知る人も少いだろう。
昭和十四年、ノモンハン事変に従軍した一大尉の手記『ノロ高地』を大ヒットさせた鱒書房の創業者である。
戦後最初のベストセラーといえば小川菊松の誠文堂新光社が出した『日米会話手帳』だが、それと並ぶ大ヒットを記録したのが毎日新聞社会部長森正蔵『旋風二十年』。初版が十万部、上下併せて五十万部以上を売った。
この『旋風二十年』も、増永が企画し、出版したものだった。
余談だが鱒書房という社名は増永がシューベルトが好きで、名曲「鱒」から取ったのだという。
『旋風二十年』は大ヒットしたものの後が続かない。そんな時に増永が目をつけたのが文藝春秋社がかつて発行していた『話』という雑誌である。
当時、文藝春秋社は内幸町の幸ビル五階にあった。鱒書房も同じ幸ビルにあり、増永は菊池寛とは旧知の仲だった。
『話』という雑誌は菊池が昭和八年三月に創刊した雑誌で、おもしろい話題を持った人物に会って話を聞いてまとめる、つまり総話筆記を中心にした雑誌で、菊池は「英語で注釈をつければTopics and Informationというようなものだ」と語っている。現在の週刊誌のようなものだろう。「世の中には面白い話題、貴重な体験を持ちながら、筆力のないために、あたら宝のもちぐされをしている人がいる。そんな人に代わって、記者が話を聞き、原稿をまとめれば面白い雑誌ができるだろう」というのが菊池の考えだった。
これも余談だが、文藝春秋の名編集長で後に社長にもなった池島信平が、文藝春秋初めての新卒社員として入社し、初めて配属されたのが『話』の編集部だった。
『雑誌記者』という本のなかで池島は『話』についてこう書いている。
〈『話』の編集は、新聞でいってみれば、社会部のようなものである(当時の『文藝春秋』は固いから、政治部。また『オール読物』は小説中心だから、学芸部といったところであろう)。三面記事のような市井のトピックを求めて、足とペンでとびまわったものである。
社会部であるから、硬派の記事でも軟かく扱わねばならぬ。「わかり易く、そして面白く」というので、どんな問題やトピックもこの線でコナしてしまった。これが、戦後、『文藝春秋』の編集をやるのに役立ったようである。『話』という雑誌は少からずガラがわるかったが、いま読んでみても、捨てがたい記事が多い。総合雑誌がコテコテになって威容を誇っている時、『話』は常に柔軟で身軽な編集をしたように思う。戦後の『文藝春秋』のやり方と、どこか共通点がある(以下略)〉
池島による戦後『文藝春秋』の大飛躍の原点は『話』にあったわけである。
話を戻す。
同じ幸ビルに本社があった縁で増永と菊池は以前から親交があった。
折も折、菊池は戦争中の軍への協力を理由に公職追放となる。嫌気がさした菊池は文藝春秋の解散を決意する。
それに反対した佐々木茂索、池島信平、鷲尾洋三ら十二人が商標を譲り受けて起こしたのが文藝春秋新社、現在の株式会社文藝春秋社なのである。
解散に当り菊池はかねてから『話』を譲ってほしいと熱心に働きかけていた増永の申し出を受け入れることにし、『話』を増永に譲ったのである。
昭和二十三年六月、名作雑誌と銘打った『話』復刊第一号が発行された。A5判、六十四ページで定価三十円。特集は「五大作家恋愛小説特集」、要するに小説中心の雑誌だった。
が、売れ行きはさっぱりだった。で、増永は二号目からは、特集主義の雑誌に変えた。このへんの判断の早さが増永の増永たるゆえんである。
第二号の特集が「恋愛サロン」、第三号が「美人画報」、そして第四号が「夫婦の性典」。「夫婦の性感」「避妊の方法」「不能症の直し方」などの記事が並んでいたが、この第四号がバカ売れしたのである。
で第五号はもう一度、「夫婦の性典」。表紙はその頃、人気のあった歌手奈良光枝のアップで、書店でも目をひいた。この五号がまた、前号に倍する売れ行きだった。
増永はすぐに決断する。『話』を『夫婦生活』という雑誌に変えることにした。キャッチフレーズは「二人で読む実益家庭雑誌」。昭和二十四年六月のことである。(つづく)