Show Creator 小林 香の聞かせてください! 雑誌の履歴書

第10回 ゲスト フリー演出家・監督 富野由悠季

04月22日

(2) 「鉄腕アトム」を担当して

「鉄腕アトム」を担当して

小林
大学卒業後、手塚治虫さんが立ち上げられた虫プロダクションというアニメーション制作会社に入られたそうですが、その経緯は?
富野
僕は大学を卒業する年の秋まで、まだ就職が決まらないままでした。本当は映画界にいきたかったんだけど、その2年前に、大手映画5社が新規採用を一切止めたんですよ。
ちょうど映画会社がなくなっていく時代と就職活動の時期が並行していたんですね。このままじゃ就職できない頃、お袋がたまたま新聞の三行広告の中に、虫プロの求人広告を見つけてくれて、虫プロが大学の近くでもあったので、面接試験を受けにいったら、受かっちゃったということです。
小林
でもすごい倍率だったでしょう?
富野
そうでもなかった。10倍くらいのものでしたかね? 小林さん、なんだか凄い会社を想像してませんか?
 印象が全然違うんです。虫プロは、西武池袋線の富士見台駅の住宅街にあって、普通の住宅を建増ししたようなスタジオなんですよ。そんなものがこれから人生を掛けるような職場に見えると思います? それに、虫プロがこの時だけ、ただ一度新卒を採用したんです。というのも、僕が大学4年の昭和37年の1月から「鉄腕アトム」が国産のテレビアニメとして毎週オンエアされることになって、面接に行ったのは10月。半年に渡る週ペースの物作りで、プロダクションはパンク寸前だったんです。猫の手も借りたいような忙しさだったから、出来の悪い僕でも入れたんでしょうね。
 映画学科を出ているので、フィルムの編集は任せてくれというところがありましたし、とにかく入りたかったから、シナリオも書ければ演出もすると面接で大嘘をついた(笑)。その面接官にしたって僕の1才年上ですからね。虫プロは、中学を卒業したあと、東映動画というところでアニメーターをやっていた人たちが、手塚先生が好きで流れてきて作った会社ですから、ボヤボヤしていると役員が僕より年下だったりするわけです。
小林
それでも、入社した時に、ある種の感慨はお持ちだったのでは?
富野
結局自分が一番惹かれた漫画を自分で演出するのかと思って、なんだか選択肢が極度に狭い人生だなと落ち込んだりもしました。でも同時に、中学時代「鉄腕アトム」の絵にほれた僕なら勤まるかもしれないとも思いました。
小林
アニメを描かずに、演出される方が入社するのは珍しいですよね。先輩はいたんですか?
富野
アトムのテレビ放送開始でどうしても必要だったんでしょう。演出、制作、それから音響のスタッフが前年に採用されていました。僕が虫プロに面接に行ったときも、大学の1年先輩が3人いました。ここの仕事だけで、食っていけるのかなって不安はありましたけど、不安だったのは面接した瞬間だけでしたね。入ったとたんに忙しくて、その後、テレビアニメという仕事が認知されていくと、食べてはいけるようになりました。だけど仕事が認知されていくと、違うジャンルの人が来なくなったという傾向があります。極端に言うとバラバラの畑から出てきていた人の集まりは、我々の時代だけですね。
小林
今は同じ畑の出身が多いということですか?
富野
そう、だから作品がつまんなくなる。作品の制作現場というのは、いろんなバックグラウンドを持った人材が必要なんだと思います。
小林
音響スタッフが足りなかったとおっしゃっていましたが、当時のテレビアニメでは、ゼロから音作りを開拓されていたということですか?
富野
それは違います。ラジオドラマの時代から、音響制作をするスペシャリストはいたわけで、それがテレビ局にも来るし、プロダクションの下請けのスタッフがテレビ局の仕事もしていました。だけど、あの頃を振り返ると、本当にひどかった。というのも、「鉄腕アトム」の音響ディレクターはフジテレビの担当プロデューサーが兼任していたんです。彼はどうも文化系で、音響ディレクターをやりたかったわけじゃなくて、他にやる人がいなかったから仕方なくやっているらしいというのが1年くらいして分かりました。
 そこで、次の作品から虫プロのものに関しては、1つ上の先輩が音響を担当するようになりました。僕らの世代はそんな音響システムを作っていく段階のところにすべりこんでいったわけです。
小林
音響のシステムがまだ日本で確立されていなかったんですね。
富野
特に週ペースで放送されるものはね。
小林
考えてみたらそれ以前は、アトムが歩いている音なんて誰も聞いたことがないわけで、それを想像でひとつひとつ作っていたんですよね。
富野
そうです。ラジオ出身の優秀な効果マンに、音声について一からいろいろ教えてもらいました。例えば、アトムが歩く時にピコピコ音を付けたのも、首が回るところで音をつけたのも、ラジオドラマや映画界のスタッフからの技術の流用でしたね。
小林
その当時世界のアニメはどういうレベルだったんですか?
富野
アメリカでは、ディズニーから始まって「トムとジェリー」を作ったハンナ・バーべラ社までの経緯の中で、テレビベースでのアニメ作りが始まっていましたから、絵で描いたものに対して音を付けるということは、業界では手馴れたものになっていました。
 ですから、「トムとジェリー」のように、すべてに音を付けていけばいいと解ってはいるんだけど、時間がないし、質が悪い。ようやくシンセサイザーを使って音付けが出来るようになった時代なんですが、100万円以上する機材でも、ろくな音は出ませんでした。当時はアニメの効果音とか音楽は、オープンリールのテープで、テープをカッターナイフで切って留めてつないで編集作業をしていました。そんな昔の話、小林さんはご存知ないでしょ。
小林
それが知ってるんですよ。私が舞台の仕事をし始めた頃、まだ稽古場の片隅にオープンリールの機材が放置されていましたし、友人のスタッフが言うには宝塚歌劇団では最近でもそれを使っていたそうです。
富野
まだ使ってるの(笑)?
小林
ええ、稽古場用の音出しだけだと思いますけどね。週ペースのアニメ制作は大変でしたか?
富野
今から考えると地獄の沙汰ですね。あんな馬鹿なことやっちゃいけない。でも昔のアニメをケーブルで再放送するようになって、見返してみると、昔使っていた音の数はたかが知れてます。今のアニメって当時と比べると100倍以上の音を入れてますからね。
小林
今のアニメは目覚しい進化の仕方ですね。入社していつ頃から演出をされたんですか。
富野
半年後に演出になりました。コンテを描けるスタッフというのがいなかったので、なれちゃったんです。僕もろくな絵を描けないんだけど、昔大好きだったアトムの絵を描くくらいは出来ましたから、コンテ程度のラフな絵なら自信はありました。
 映画の演出で必要なコンテでプランニングをたてるということは大学時代に知りまして、全く絵が描けない学生はダメだということも知ってました。虫プロで、アニメーターに演出プランを示すコンテをきれないスタッフが大半だと知って、それでズーズーしく演出させろって、手をあげちゃたんですね。それを手塚先生が認めて下さったので、半年目に演出になれたんです。
小林
そして、アニメ界にすっと入っていかれたんですね。
富野
そう、入っていけると思いましたね。

04月22日

(2) 「鉄腕アトム」を担当して