昔、週刊誌の記者だった!? ジブリの地とあこがれの人に興奮を隠せない小林香が、数々の名作の原点となった二人の出会いなどたっぷり聞いてきました。
スタジオジブリ代表取締役社長 1948年8月19日、愛知県出身。
1972年に慶応大学文学部卒業後、徳間書店に入社。1978年には「アニメージュ」の創刊に携わり、副編集長を務める。1984年には『風の谷のナウシカ』の製作を担当し、1985年にはスタジオジブリの設立に参加。1989年よりスタジオジブリの専従となり、日本屈指の名プロデューサーとして『もののけ姫』(1997)や『千と千尋の神隠し 』(2001)など大ヒット作を発表。2008年夏公開予定の『崖の上のポニョ』のプロデューサーも務める。現在TFM「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」パーソナリティとしても活躍。

週刊誌の記者だったころ
- 小林
- このお部屋って『「もののけ姫」はこうして生まれた。』というメイキングビデオに出てきますよね! たしか、みなさんでこのお部屋で会議されていました。今日はもう凄く緊張しています。
- 鈴木
- え、どうしてですか?
- 小林
- 憧れのジブリの地に足を踏み入れ、鈴木プロデューサーとお話できるなんて・・・・・・。
- 鈴木
- 僕あなたをもっと年上だと思っていたんですよ。写真だとなんだか老けて見える。写真を変えたらどうですか(笑)。
- 小林
- 意外とそうでもなくて、30なんですが。
- 鈴木
- 僕の娘くらいですね。僕のマンションは恵比寿にあるんだけど、部屋がいっぱいあって、娘が2階息子が4階、僕が8階、オフクロが10階で暮らしているんです。
- 小林
- なんだか楽しそうですね。今日は、鈴木さんと、雑誌の関わりについてお聞きしたいのですが、普段あまり雑誌はお読みにならないと伺っております。とはいえ、雑誌を作ってこられているので、人一倍思いはお持ちでは? と思うのですが。
- 鈴木
- 子供の頃は人並み、もしかしたらそれ以上に、漫画雑誌は色々読んできました。僕らは特に「少年マガジン」、「少年サンデー」世代と呼ばれて、つまり漫画世代なんですね。確か僕が4年生頃に創刊されて、それまでも少年のための「月刊漫画誌」というのがあったのね。それは幼稚園とか、物心ついた頃からずっと読んでいました。それ以外の雑誌は大学生になっても殆ど読みませんでしたね。大学生になった僕は、いわゆるモラトリアムで、これがやりたいというものが無かった。で、いざ就職するとなると困ってしまって、逆に何なら自分でも出来るかを考えました。その頃アルバイトで、子供たちを集めて座談会を開いて、それをまとめて書くといったようなことをして評判が良かったので、書くことなら自分にも出来るんじゃないだろうかと。じゃあ新聞や雑誌でしょ。だったらそういう所を受けようと思ったわけです。
- 小林
- それで徳間書店を受けられたと。
- 鈴木
- 悩んだんですけど、出版社はそこしか受けませんでしたね。2000人くらい応募があったらしいから、だめだろうと思っていると、なんだか知らないけど採ってくれたんです。忘れもしないのは面接の時、当時徳間書店は「週刊アサヒ芸能」を作っていて、入社するとその編集をやらなくちゃいけないにも関わらず、「今まで読んだ週刊誌は? 」 という質問に「読んだことありません」って馬鹿正直に答えちゃった。あの時は怒られたね(笑)。「入ってから勉強します」とか言って誤魔化しちゃいましたけどね。それで入社して初めて雑誌というものに対面しました。「週刊新潮」、「週刊文春」などいわゆる週刊誌を手当たり次第に読み漁りました。
- 小林
- 面白かったですか?
- 鈴木
- 週刊誌ってのは何やるのかな? って勉強のためですよ。
- 小林
- 読み手としてですか? 作り手として?
- 鈴木
- 両方ですよ。記者として記事を書かなきゃいけないしね。自分の雑誌の特徴とか、色々読んで勉強しなくちゃだめだった。僕らの世代は入ったらすぐに実践で、いきなり記事を書けと言われたものです。といっても、どうやって書いたらいいのか誰も教えてくれない。だから、「週刊アサヒ芸能」を一所懸命に読みました。読んだら少しずつ解ってくるんだよね。「とはいえ」とか「とばかりはいえない」とか、週刊誌独特の接続詞をまとめて一覧表を作ったりしましたよ。
- 小林
- マニアックですね。
- 鈴木
- マニアックではなく、それは基本ですよ。横において見よう見真似で記事を書いていくわけです。困ったら見て、こういう接続詞を使えばいいんだと。

- 小林
- 最初にお書きになった記事はどのようなものだったんですか?
- 鈴木
- 舟木一夫って人が自殺を図ったんですよ。歌手なんですけれどね、千駄ヶ谷にあった旅館で。それを記事にするため、旅館や高輪警察に行ったのを覚えていますね。
- 小林
- 記事を書くときは、記者が論調や方向性を決めることが出来るんですか? つまり、凄くスキャンダラスに書き立ててみるとか、あるいは極端にしんみりと自殺を書いてみるとか。
- 鈴木
- デスクと相談ですね。でも週刊誌って具体的にこういうことがあった、ああいうことがあったっていう・・お話だから、まず取材にいってそれを見つけてこなきゃいけないですよね。それが大きな特徴。
- 小林
- 記者を何年くらいやられたんですか?
- 鈴木
- 3年くらいかな。
- 小林
- その後アニメの方へ?
- 鈴木
- ややこしいんだけど、その後2年間漫画雑誌を作ったんですよ。
- 小林
- 漫画雑誌? なんという雑誌ですか?
- 鈴木
- 「コミック&コミック」っていう名前でね、これは売れたんだけど、当時の基準からすると売れてないってことになっちゃって、創刊から1年半で辞めようということになったんです。青年漫画誌で、少年マガジンや少年サンデーで育った人が大人になっても読めるような雑誌だったと思います。だから書き手も、少年誌で書いていた人たちにお願いして書いてもらいました。その関係で、漫画家の方と交流が出来て、いまだにつきあいが続いている人もいますよ。
- 小林
- 雑誌を作る前からずっと、漫画雑誌を読んでこられたわけですよね。
- 鈴木
- そう、これは僕らの世代からでしょ。上の世代は漫画を読まないからね。
- 小林
- 記者をやられていた経験の中で、今活かしていることってありますか?
- 鈴木
- リアルに物を見ることかな。週刊誌って・・お話だっていったでしょ。例えば大昔は今のような情報ってなかった。情報っていったら、「薬売り」が媒介するものだった。「隣の村ではこういうことがあって」というのを教えてくれるわけでしょ。「ある娘がいて結婚するはずだったが、他に好きな人が居て事件が起きた」とかね。その話を聞いた村人は「あそこの村ではこういうことが起きているのか」なんて娯楽として楽しんだわけです。要するに週刊誌で扱うネタってこういう具体的なお話で、これに近いことをやっていたわけです。なにしろまだ週刊誌が元気な時代だったからね。色々な記事を書きましたよ。
- 小林
- 書かれた中で印象に残っている記事は?
- 鈴木
- 「狼夫婦」の話かな? 1971年に、過激派が丸の内で起こした三菱重工爆破事件があったんですよ。たくさんの人が亡くなった。大きな事件として報道されるも、犯人は中々見つからない。僕が会社に入ってしばらくした頃に、大道寺という夫婦が捕まって、それがマスコミで「狼夫婦」と騒がれていたわけです。逮捕されて記事を書かなきゃいけないんだけど、発売日の関係で1週間遅れそうだったんです。「狼夫婦」のことをまともに書いても、本が出る頃には他の週刊誌が書いてしまっているだろうから、何を書こうか悩むわけです。新聞を読んでいたら、被害者の遺族のコメントがずらりと出ていました。「犯人が逮捕されて、やっと故人は浮かばれる」と一様に書かれていたのを読んで、犯人が捕まった時、自分だったらこんなこと言うだろうかと疑問でした。それで、そのコメントした人に話を聞きに行ったのです。新聞を持参して、本当にそんなコメントを出したかを聞くと「そんなこと言ってません」と言います。ただ、新聞記者が「これでお父さんも浮かばれますよね」と聞いてきて、確かにそうだから仕方がなく「はい」と答えたと。僕にとってはこれは面白いネタになるわけです。そこで新聞記者にそう聞かれた時、すんなり受け止められましたかと聞くと、「自分の気持ちの整理がつかなくて、実を言うと腹が立った」、「新聞に自分のコメントとして載せられていることが、落ち着かないし、とまどう」、と言うわけです。更に、「でもね、もっと許せないのは、葬式後に補償金を預けろと営業を寄こした全銀行です」、という話も聞けました。他の人にも取材して、結局そんなコメントをした人はいなかったということが解りました。更に取材を進めていくうちに、ある被害者遺族が生麦にある「無差別殺人被害者の会」に所属して国と交渉していることが解って、その人にも聞きに行きました。そこで他の色々な事件の例を聞いて、先程の話を併せて記事にしたわけです。これは印象に残っていますね。記事ってそういう具体的な話をたくさんあつめて書くんですよ。

- 鈴木
- もう一つ印象に残っているのは「特攻隊と暴走族」という記事ですね。特攻隊について調べてみると、20期くらいまであるんですね。ちょっと正確じゃないかもしれないけれど、本当に特攻へ行った人はその内16、17、18期の人たちです。一度死ぬことを決意して特攻へ行ったけれども、生きて帰って来た人たちはこの期の人たちです。特攻へ行かずに済んだ15期以前、19期以降の人たちの戦後とどう違っているんだろうと思いました。そこで川崎のとある工場に話を聞きにいって、8時間くらい話してようやく少し見えてきました。特攻へ行った以上国のために、死ななきゃいけないのに生きて帰ってきたことで、周囲から冷ややかな目で見られてきたこと。特攻は命令ではなく志願制が採られていたがその方法は、「特攻隊を組織するから、嫌なものは行かなくて良い」。ただ、その次にこう言われていたこと。「志願するもの、一歩前へ」。そこでじっとしている訳にはいかないから、無理やり足を前に出したんだと。だからあれは志願ではなく、ある種強制だったというわけです。特攻隊を組織する時には、戦争に負けることが解っていたから戦後のことを考えて志願制にしたんだとその人は言っていました。生き残った人の名簿を手に入れたので1人ずつ話を聞くと、ある人は天皇陛下に対して万歳なんて言う気にはなれなかった。と言いました。僕が会った殆どの人は、ブルーカラーでした。それに対して、特攻隊を経験しなかった前後の期の人達はみんな偉くなっていた。僕の中では一度死を決意した人は、戦後浮上できず、そうでない人は成功して、その後の人生を生きているのではないかという仮説があったのですが、取材をしてそれが確信に変わったわけです。それを調べる一方で、今度は暴走族ね。なんと彼らの集会に参加することになりました。幡ヶ谷の喫茶店を借り切って暴走族が全員集まるわけです。それで、行ってびっくり。喫茶店が教室みたいになっているんです。議長席があって白板まである。議長が「今日はアサヒ芸能の鈴木さんが来てるんだから、みんなビシっといけよ」、とか言ってるわけです。その時のテーマ1は、「バイクのうしろに女を乗せていいか」。
- 小林
- アハハハハ
- 鈴木
- それでテーマ2は、マッポは警察のことなんですけど「マッポに注意されたときに闘うかどうか」。
- 小林
- 結構民主的ですよね。
- 鈴木
- テーマ1は議論が白熱してましたね。あるヤツは「やっぱり暴走族は男の世界だから、女なんか乗せちゃいけない」というわけです。そこに女の子も来てるから、「アタイたちはどうなんのよ〜」ってもう大変。見てて、これは生徒会みたいだなと思いました。暴走族っていいながら、そこで行われていたのは真面目な討論会。みんな格好は滅茶苦茶なんですけどね。そんなことを見ながら、僕が特攻隊と暴走族を結びつけたのはただ1点だったんです。当時暴走族が夜中バイクで走り回って色々な人に迷惑を掛けている。そこで特攻へ行かなかった人たちに、暴走族について聞いてみると、「あいつら迷惑だから、逮捕しちゃえばいいんだ」っていうわけです。そして特攻隊へ行って生き残った人たちは、全員が口を揃えて「気持ちが解る」という訳です。こういうことをまとめて記事を書いたんです。そしたら初めて特攻隊の生き残りの方からファンレターをもらいました。今でこそ特攻の生き残りの人が発言をしているけれども、当時としては、まだそれが許されない時代で凄くめずらしかったんですよ。
- 小林
- 週刊誌のページに納まりきらない深いテーマですね。
- 鈴木
- 週刊誌向けに、4章立てに納まるように書くんです。基本的に週刊誌は4ページ立てなんです。縦12字で1章がペラ10枚なんです。それが4章だから、40枚で記事を書くんです。1章目、2章目はなるだけ具体的なことを、起承と来て、転で少し抽象的なことを入れて、最後にもう一度具体的なことを書いて納めるというのが、週刊誌の書き方なんです。
- 小林
- お話を聞くにつれ、確実にその時の経験は今と密接に繋がっていそうですね。
- 鈴木
- どうやって説明していいか解りませんが、自分の中で一貫性はありますね。

