第11回

VOl.11

「それいゆ」
1951年秋号
表紙

淳一がパリから描き送った最初の表紙絵。誌面にも次第にパリ便りが増えていった。

中原淳一

1913年香川県生まれ。18才の時、趣味で作ったフランス人形が認められ、東京の百貨店で個展を開催したことをきっかけに、雑誌「少女の友」の挿絵、口絵、表紙絵、付録などを手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。戦後は、賢く美しい女性になってほしいという理想に燃え、雑誌「それいゆ」(昭和21年)「ひまわり」(22年)「ジュニアそれいゆ」(29年)「女の部屋」(45年)を相次いで創刊し、女性たちに夢と希望を与えた。編集長として女性誌の基礎を作っただけでなく、イラストレーター、ファッションデザイナー、人形作家、プロデューサー、ヘアメイクアーティスト、スタイリスト、インテリアデザイナーなど現代につながる先駆的な存在として活躍した。1950年代後半、絶頂期に病に倒れ、永い療養生活の後、1983年に永眠。

第11回 淳一さんの苦悩、そしてパリ行き

「それいゆ」も「ひまわり」も読者の評判も上々で、淳一さんが考えていた以上に順調に滑り出しました。それに力を得た淳一さんは、自分の思いに確信を持つのです。そして、より読者の為に力を入れて二つの雑誌作りに取り組もうと決心するのです。しかし、この成功により淳一さんの生活は多忙を極めました。二つの雑誌に加え、他社からの仕事の依頼が殺到したからです。
それは、絵を描いたり、原稿の執筆に留まりませんでした。インタビュウやラジオ出演、講演や、色々な会合にも出席しなければならない等休みは勿論、寝る時間もままならない生活でした。淳一さんはどんな仕事にも“手を抜く”という様な事は無く、すべてに全力でやる人でした。しかし、子供の頃の僕には、それが父親の当たり前の姿だったのです。
考えてみれば、小さい頃僕は淳一さんの寝ているところの記憶が無いのです。朝僕が起きた時には、淳一さんはもう仕事をしていました。そして僕は、寝ぼけ眼でオヤジの仕事部屋へ行って、良く仕事をしている淳一さんを見ていました。そして、夜、僕が寝る時も淳一さんは仕事机に向っていました。僕はオヤジが絵を描いているのを見ているのが好きだったのです。

その頃の淳一さんの睡眠時間は2、3時間。徹夜が3日も続くこともあったようです。そんな時、ある社員から「そんなにしてまで原稿をかかなくてもいいではないですか。原稿ぐらい他の社員に任せたらどうです。雑誌なんか営業さえしっかりしていれば、かならず売れていくものです。編集なんて誰でもできるものですよ─。」という意味の事をいう人がいたのです。それは本作りという仕事に経験の少ない社員の言葉だったのですが、毎日毎日ぴいんと張りつめた編集を続ける淳一さんの神経には、その言葉が堪え難く淳一さんを苦しめたのです。しかし、今ペンを捨ててしまい、本が売れなくなった時に一番嫌な思いをするのは自分なのだと考えて淳一さんはやり場のない気持になってゆくのでした。そして、フランス行きを決意するのです。もし、淳一さんが居なくても雑誌が健全に伸びてゆくのなら、今まで自分が無駄な努力をしてきたことになるし、自分が居なくて会社がつぶれてしまうならそれはそれで仕方がないことなのだ。というところまで思い詰めた末出した結論が、外国へ行くことだったのです。

僕の遠い記憶の中にも確かにその頃の会社の変な空気が残っています。僕は当時ひまわり社の専務だったYさんという方に可愛がられていて、小学校に上がる前だったと思いますが、社員旅行に連れていってもらったのです。両親とも忙しかった為、僕たち兄弟には家族旅行という経験はありませんでした。僕は嬉しくてついていったのです。僕は甘えてYさんの膝の上にいつもいたような気がしますが、その社員旅行でも何かおかしなものを子供ながらに感じたのです。それは言わば“派閥”のようなものがあって何となく社員の人達が二分しているのです。言ってみれば“社長派”対“専務派”です。子供心に恐いものを感じた記憶です。“社長派”はどちらかというと淳一さんを悩ませた“営業派”であり“専務派”は淳一支持派だったような気がします。また、その頃淳一さんに替わって別の“画家”を立てて会社を運営しようと画策していた節もあったのです。そんなこともあっての淳一さんの決心だったのではないでしょうか。

とにかく、雑誌を作っている以上、もっともっと知りたいことは色々あるし、ネコの目ように変わるといわれるファッションの国フランスの女性たちが、いったいその流行と実生活をどのように結び付けているのか等々、淳一さんなりの課題を沢山持ってのフランス行きだったのです。それでも、営業さえしっかりしていれば内容はともかく売れるものだと言われたことは、やはり淳一さんの心の中には消えずにひっかかっていましたが、不眠不休を癒す為にも日本を出ることにしたのです。
まだまだ外国に行く日本人が少なかった時代です。ちなみに淳一さんのパスポートナンバーは5000番台。そんな中、淳一さんは日本を旅立ったのです。
昭和26年2月のことです。

しかし、しばらくすると編集部から「表紙はやはり毎号淳一さんでなければならないので送って欲しい」という手紙が届いたのです。淳一さんはそれを承諾しました。そして最初にパリで描いたのが昭和26年秋号の表紙です。
ところが、二、三ヶ月たつうちに、月を追って売り上げ部数少なくなってくるので何でもいいから原稿を送って欲しいという便りが会社の誰彼となく来るようになったのです。淳一さんもじっとしては居られなくなり、とにかく、パリ便りを毎月いろいろなかたちで書いて送ったのです。そして出発後一年くらい経った頃、もうどうしても帰ってもらわなければ会社を維持出来ない、一日も早く帰ってきてほしいと、まるで追い詰められたような便りや、やっと開通した国際電話も来るようになり、淳一さんはもう帰らざるを得なくなったのです。初めは三年位はパリに滞在しようと考えていた淳一さんは、予定を繰り上げて一年ほどで後ろ髪を引かれる思いで帰国したのです。

しかしそれは、不眠不休で会社の為に、そして雑誌の為に仕事をして来たことが無意味ではなかったことを、はっきり示す結果だったのです。そして、これからまた、必死になって自分が働くより道は無いのだろうと、ひそかに決心を新たにしたのでした。

中原蒼二

1945年、中原淳一、葦原邦子の次男として東京に生まれる。大学卒業後、現代演劇協会に研究生として通う傍ら、歌手としても活動を開始。音楽を中心とする様々なジャンルの舞台をプロデュース、同時にグラフィックデザイナーとしても幅広く活動。父である中原淳一の死を契機に、父の仕事を遺し広めていくため、株式会社ひまわりやを設立し、代表取締役に就任。主に著作権管理、展覧会開催、書籍の企画デザイン、グッズ製作、中原淳一についての講演活動を行なう。2004年からは東京広尾で中原淳一ショップ「それいゆ」を運営。
http://www.junichi-nakahara.com/