
- 矢澤
- で、とても面白い仕事ではあったんですが、僧侶という自覚もちょっとはありましたから、このような状況の中で自分が埋没してしまうのはどうかなという気持ちがありまして、楽しいだけにね。それで、半年ぐらいで、また願書を出し始めまして。ちょうど1年目に、ある仏教関係の出版社から声がかかりまして、「面接に来なさい」と。その仏教関係の出版社は現在潰れていますけれども、そこの社長がジャーナリストとしても知られたなかなかユニークな人間でお寺との付き合いが密だったんですね。
- それで、お寺の役に立つ雑誌を作りたいんだけど、企画書を出してくださいといわれました。それで私が右も左も分からないうちに企画書を出しました。目次なんかも100本ぐらい1年分は出したんです。
- 花田
- 目次100本はなかなか出せません。
- 矢澤
- それで、1週間後に「この雑誌を創刊してください」。それが自分で名付けた『月刊住職』だったんです。

- 花田
- あの有名な。
- 矢澤
- 私がまだ26歳の頃だったかな。1974年に『月刊住職』というのを一人で立ち上げた。
- 花田
- だけど雑誌編集は初めてでしょう。いきなり編集長ですか。
- 矢澤
- そうですね。学術書の校正もちょっとやりましたが、向いてなかったんじゃないんですかね(笑)、とにかく雑誌を、月刊誌を出したいということで、何にも分からないうちに見よう見まねで、1974年の7月頃かな、『月刊住職』を出したんです。
- 最初は60ページくらいの薄い雑誌だったんですが、3ヶ月ぐらいは、企画、取材、記事を書く、レイアウトも表紙も、とにかく全部一人でやりました。
- 花田
- 凄いパワーですね。ユニークな雑誌でしたから何かと評判になりましたよね。
- 矢澤
- なりましたね。新聞が“お坊さんも悩んでいる”みたいな記事を出しましたし、今東光さんがコメントを出したりと、いろいろやっていましたね。まぁ、お寺の役に立つという、私は小さいながらも寺の住職の父を早くに亡くしていまして、母親に育てられたものですから、多少お寺の悩みというものは一般のお坊さんより知っていたんですね。母親が、いろんなお坊さんに気を遣ったり、お願いしたり、ペコペコしている姿を見知っているわけですね。都会にあったお寺ですから、都会の事情も良く知っていましたし、大学で法律にも携わっていましたので、多少は社会への目は開かれていたと思うんですよね。
で、『月刊住職』を24年間やったんですけれど、あいにくその会社の社長が亡くなりまして。ちょうどバブルが終わった頃でもありましたから、黒字の雑誌だったんですけれども、会社自体が大変な状態になりました。
実は、社長が江の島にある廃仏毀釈で潰されたお寺を復興させようと、大変な苦労と費用をかけて実際にお寺を完成させたところで、発願出資者(高僧)の気が急変して、数10億円の負債を会社が背負わされ、途方に暮れてしまったのです。そこで、私が信頼していた同宗(高野山真言宗)の池口恵観僧正に助けを求めたらどうかと話をしたところ、多額の負債にも関わらず、豪気にも住職を引き受けてくれたのです。今ではその負債もきれいだそうですよ。今日、清原選手の師匠だとか政財界人に有名になっている池口僧正、あのお方です。
で、話をもどせば、会社が立ち行かなくなり、雑誌は黒字だったのですけれども、そのまま続けることはできなくなりました。それで、1998年に「休刊」になったんです。

○『月刊住職』、『寺門興隆』の創刊