WiLL編集長 花田紀凱が、専門誌編集長に訊く!


【第1回】
「寺門興隆」編集長
矢澤澄道さん
- 花田
- もともとはお寺でお生まれになったのですか?
- 矢澤
- そうです。1948年(昭和23年)に、横浜の高野山真言宗安楽寺という寺に生まれました。5歳の時に住職だった父が亡くなりまして、母親がまわりのお寺の住職さんたちに助けてもらって、私が成人するまで、というレールをひいてくれたのですけれども、私がなかなか仏門に帰依するような度量がなかったものですから。それに仏教自体わからないことが多いものですからね、普通でしたら高野山大学に押し込まれるところを、明治大学の法律の方に入学をしました。
- 花田
- それは、ご自分のご意思で?
- 矢澤
- そうです、自分の意思で。法科というとね、なんとなく世の中のためというと大袈裟ですが、人前もいいかなと思いまして。それで、無事に卒業させていただきまして、母親や、周りの先輩、あるいは師匠などの姿をみていると、やはり「自分のご縁」というものを大切にしなければいけないな、と。そう思いながらも、活字文化というものへの興味が捨てがたくて。父親が俳人だったものですから、もともと文字への親しみがありました。高野山大学には行かないで、1年間高野山専修学院という高野山真言宗の僧侶の養成機関に入りまして、まぁ落第生ではあったものの修行させていただいて(笑)。
- 花田
- 大学の時に、仏門のほうに来なければいけないという思いが徐々に出てきたのですね。
- 矢澤
- 徐々にというよりも、瞬間的にですね。願書を出してしまうと、もう行かなければ行けないですからね(笑)。刹那的な判断でした。
- 花田
- 誰かに説得されたというわけでもない?
- 矢澤
- やはり、目に見えない説得はあったでしょうね。正住職のいない寺の檀家さんからは多少は期待されていたと思います。人格的な問題ではなくて、「縁」というものですから。それで、高野山に登り、修行などもいたしまして、まぁ飛び出すようなこともなく1年間修行させていただきました。それで、24歳くらいで教師資格を取りました。しかし、まだその時点では踏ん切りが付かなくて、一番最初に願書を出したのは出版社だったんです。いくつかの出版社の採用試験を受けたのですが、お坊さんの資格をもっているせいか、どこに行っても、面接で「寺に入りなさい」と言われました(笑)。
- 花田
- ちなみに、どんな出版社をお受けになったんですか?
- 矢澤
- 新聞社や出版社など名だたるところは一通り受けました、文藝春秋は受けませんでしたけれど(笑)、面接でふられてしまうんですね。ご存じの通り、私の時代は就職希望者が多い時代でしたし、人気の業界ですから、一社に何百人と集まってくるわけです。そういう競争のなかで生き残れなかったんですね。それである時「もうどこでもいいや」というやぶれかぶれの気持ちで流通業界へと願書をだしたんですよ。それが、銀座八丁目にある「デパートニューズ社」というデパート関係の流通業界の出版社だったんですね、新聞を発行していました。面接の当日に「明日から来なさい」といわれて。
- 花田
- 椎名誠さんがいらしたあの「デパートニューズ社」ですか?
- 矢澤
- そうです。その頃はまだ、椎名誠さんは『ストアーズレポート』の編集長をやっていました。とても風変わりな出版社で、非常に楽しい思いをいたしました。
- 花田
- それじゃあ、椎名さんの下で! それは意外だなぁ。
- 矢澤
- まぁ、下とはいっても部署が違いました。椎名さんは月刊誌の方でしたので。その風貌や交友関係なども面白いなと思いながら見ていました。
- 花田
- では、椎名さんの作品によく出てくるヘビが大好きな高田さんなんかもご存知ですね。
- 矢澤
- ええ、よく知っています(笑)。その当時、ちょうどデパートニューズ社も新橋から引っ越してきたばかりで、威勢の良い頃でした。原稿を書くとき以外は、ほとんど社員は社にいませんでした。蜘蛛の子を散らすようにみんなどこかに行っちゃってましたね。映画やデパートに行ったり、喫茶店に行ったり、ボーリングしていたり。
- 花田
- どんな仕事をしてたんですか?
- 矢澤
- 記者です。
- 花田
- じゃあ、担当があって、デパートとかに取材に行くわけですね?
- 矢澤
- そうです。私は、デパートの文化面中心で、画廊に行ったりですとか、あとは化粧品関係の仕事をやっていたりもしていました。
- 花田
- これまた、意外だなぁ。その後椎名さんにはお会いになったことはありますか?
- 矢澤
- ありませんね。
- 花田
- それじゃ、これを知ったら椎名さん驚くなあ。その頃の椎名さんはどんな感じだったんですか?
- 矢澤
- そうですね……いつも小さなショルダーバッグを担いで、飄々としてました。ああいう人になるとはとても思えなかった(笑)。私が辞めて、1年後ぐらいして『本の雑誌』を出しました。当時「これから大きな仕事をするから」と言っていたのが、それだったんです。